【00:00】グローバルスタンダード
「グローバルスタンダード」とは、世界中どこにでも通用する基準のこと。一部の国や企業で通用している基準ではなく、世界中の誰もが共通に利用することができる基準のことを「グローバルスタンダード」という。
今この社会はSNSの普及によって通気性が良くなりだし、グローバル化が進んでいます。そしてこのグローバル化の中でこれから何度もニュースに取り上げられ問題の争点となるのが「多様性」。
多様性とは本来「尊重」や「気遣い」を求めるものなんですが、しかし今世界がネットで多様性を巡って争っているのは「基準」なんですね。基準を巡って争っているんです。
「多様性を争う」とは「基準を争う」ということであり、LGBTQや男女、Xジェンダー、ADHDやASDなどのくくりもそう。多様性が争われるとき、そこには常に「ニュースタンダード」―新しい基準がやってきており。そのニューススタンダードはどこからやってきたかって、グローバルスタンダード―世界基準から来た。
ただ厳密に言うとグローバルスタンダードって、世界基準と言っても厳密には「世界共通」というわけではないんですね。影響力の強い…特にアメリカとかが、例えばLGBTQとかフェミニズムとかで湧くと、それが一気に世界共通っぽく見え実際にグローバルスタンダードになっちゃうことがある。
男子トイレ、女子トイレだけじゃなく「オールジェンダートイレ」みたいなのができたり―確かにそういう試みは性的マイノリティが求めているなら「気遣い」としてすごく良いと思うんですが、ただ「今このすごくパワーのあるグローバルスタンダードという主張は、一歩間違えば非常に危険なことを巻き起こすな」って思っています。
【01:28】グローバルスタンダードの危険性
私は何を危惧しているかって、このグローバルスタンダードを主張すれば「文化や個性を破壊」することができる。
例えば「相撲」
相撲には「女人禁制、土俵に女性は上がってはいけない」というルールがあります。そしてそれは相撲がグローバルに取り上げられるたびに、今まで幾度となく世界中で問題視されてきたことです。相撲が取り上げられるたびに、世界中の人権団体が「女性蔑視だ」とクレームと批判を入れた。まさにそれは「相撲対人権団体」という構図です。
例えば今年行われた「カタールワールドカップ」
問題となったカタールのイスラム教はLGBTQなどを徹底的に排除しており、もしLGBTQの人たちが性交渉や結婚をすれば「最長7年の禁固刑」に処し、万が一見つかれば政府が連行します。そのカタールの現状に世界中のLGBTQの人たちは猛反発。
またカタールではその他にも「深刻な人権侵害」を行っており、問題が山積みだったカタールに対し、世界はどう対応したかって―「ワールドカップを絶対に開催するな」と世界中が猛抗議を行ったのです。
世界は自分たちの基準にカタールを当てはめようとしたんです。
まさにそれは「カタール対世界」という構図になっていました。
【02:34】本当のグローバルスタンダード
確かに分かるんですね。「LGBTQの人たちが、性的関係を持ったら政府に連行される」「女性が土俵に入れない」…グローバルな視点で見ればそんな考え方は「時代遅れ」だと。だから変えるべきだと動いた。
ただここで一つ非常にセンシティブな、注意するべき問題がある。本当の多様性とは、本当のグローバルスタンダードとは、その国の文化を破壊することではない。「世界中こうしているからこうしろ」って、一つのルールに世界中を押し込めることじゃ決してないんです。
本当のグローバルスタンダードとは「それぞれの文化を尊重し、気遣いをすること」
例えばグローバルになったとき「カタール」とか「相撲」みたいに、まず発信者側が考えなきゃいけないのは「異常性を抱えたまま世界に発信をしても、当たり前ですが世界は認めてくれない」だからそういう変わった文化性を持っているなら、グローバルスタンダードに気遣わなきゃいけない。
「郷に入れば郷に従え」という話で世界に発信するなら、世界基準に従う必要がある。だからまず相撲協会は世界に発信するなら、説明を世界に向けて丁寧にする必要があった。相撲が今「女性蔑視」に当たるという問題がありますが、元々相撲という文化は実はスポーツというより「神事」に近いものなのです。
【03:34】人間らしい気遣いと尊重が最も重要
相撲は神に関する儀式的な意味合いがある「伝統文化」であり、皆さんを驚かせてしまった女人禁制は、実はこういった神事の宗教的背景から来ているんです。
確かに我々も「女性が禁止」というのは、今の時代には合わない歪なルールになっていることは十分わかっています。ただ決して女性を差別するために作られたルールではないことを、理解していただきたいです。
いびつながらも伝統として、数百年、数千人もの人が本当に大切に守ってきた、受け継がれてきた神事の伝統であるんです。ご理解どうかよろしくお願いいたします。
などと、そういう丁寧な「気遣い」が一つあればよかった。そしてそれを受け取る側、私たちは尊重する必要があるんです。「納得」はできないけど「理解」はできると。全てが自分の納得いく範囲に収まることはない。だから「尊重」してあげる必要がある。
この「気遣い」と「尊重」という非常に人間らしい行為が、グローバルな世界では必要不可欠になる。
ビジネスライクに事務的に説明していたら、それはもう反感を買うだけです。特にグローバルになったら、言葉なんて通じているようで通じてないんです。言葉は共通言語じゃなくなるんです。じゃあ多様化した社会での共通言語は何かって「人間的な温かさ」。それが「気遣いと尊重」なんですね。
相撲で説明したように「人間味のある気遣い」そういうことができるなら、カタールみたいな最悪な事例でも大多数の批判は回避できちゃうんです。それほど強烈な言語です。人は納得できなくとも、理解がしたいんです。
【05:05】結論
多様性をめぐる争いには常に少数派が求めている基準があり、その基準はいつもグローバルスタンダードというバックボーンを抱えて
殴り込んでくる。ただ多様性とは分断を煽ることではない。
歪ながらも日本には日本の良さがあるように、まずはその文化を尊重し、そしてマイノリティの意見を言うのです。それに対し文化側は気遣いをし、説明をする必要がある。グローバル化とはその繰り返しでしかない。
「多様性」も「グローバル化」もこれから幾度となく問題になるでしょうが、結局は「尊重ができてない」か「気遣いができていない」か、この2つの原因に帰結します。
最近「トイレが男女以外に新しいものが必要か?」みたいな議論が行われているじゃないですか?それも結局は「尊重と気遣い」があれば、実際にトイレを作る必要ってないんです。マジョリティがマイノリティを深く理解し、気遣ってあげれれば、マイノリティ側もマジョリティ側の主張を必ず尊重してくれます。
少数派が本当に求めているのは物質とか基準ではなく「理解」が欲しいんですね。
お互いが譲り合い、理解し合えている世界線で、それでも何かを求めてくる人は確実に「ネジがずれている人」です。つまりその中には「少数派の顔をかぶったエセマイノリティ達」がいて。このエセマイノリティ達にカルチャーが破壊されることは絶対に避けたいんです。
「不完全なものが存在してはならない」なんてことはないんです。相撲とかもそうですが、こういう歪な文化って世界中に山ほどあるじゃないですか。でもこういう歪な文化って、その国だからこそ存在できるということがあるんですね。
その信仰ができるその国だからこそ、その歪なものが、そのいびつな状態で存在し続けられる。それを「文化」だというのです。
そしてそれってめちゃくちゃクレイジーで面白いんですよ。