【00:00】ポリコレとは
「ポリティカルコネクト」略称「ポリコレ」
社会の少数派に、不快感や不利益を与えないように意図された政策
今この少数派への意図的な政策「ポリコレ」が英米にて「多様性」と称し、ますます過激になっています。その一つが「文化の選択的編集」です。これ皆さんはありだと思いますか?
- ジョニー・デップ主演の映画「チャーリーとチョコレート工場」では、食いしん坊役のグループは
「とても太った9歳の少年」の代わりに「巨大な9歳の少年」に
また、同作に登場するウンパ・ルンパは
「小さな男」から「小さな人」へ
- 児童小説「アッホ夫婦」では
「紳士淑女の皆さん」から「皆さん」へと
- 「おばけ桃の冒険」に登場するミミズの肌は
「愛らしい桃色の」から「愛らしい滑らかな」と
変更されるなど、正直後半は何を理由に変更したか分からないくらいだったんですが。
例えば「紳士淑女の皆さん」を「皆さん」に変えたこれは―紳士淑女のこの部分が「性別を指定するような単語」だから著作全体から消したそうです。
またミミズの肌の「愛らしい桃色の」から「愛らしい滑らかな」への変更は何を意味してるかって―肌の色への言及があったからだそうです。
【01:04】誰が何を求めているのか?
もうこれ完全に「差別意識がある人の発想」なんですよね。以前の動画でも話しましたが、差別をされてる当事者の人って実は別にそんなに意識していないのに、そのそばにいるマイノリティーを叫ぶ一部の過激派が「代弁」と称しこういった主張をしているんです。
27時間テレビでは障碍者が如何に可哀想な生き物かを説きましたが、あの感動ポルノと化した番組と一緒で、結局は「障碍者などの少数派を利用して、個人的見解を主張したいだけの人」がいるんです。
そういう人を私は「マイノリティーの皮を被ったカルチャークラッシャー」と呼んでいます。その人たちがマイノリティーというポジショントークで「超有名な作品を私たちが変えた」という悦に浸っているとしか思えないんです。
ただ彼らの言い分では「こんにちでも全ての人が楽しめるように」という理由で変更を加えたそうです。今回の編集に対し米作家サルマン・ラシュディはTwitter上で、「ロアルド・ダールは天使ではなかった」と生前の言動に偏りがあったと認めながらも
しかしこれは、ばかげたな検閲だ。
パフィン・ブックスとロアルド・ダール物語社は恥じるべき。
と批判。
文学と人権の中間で表現の自由を守るとする非営利団体PEN Americaの代表スザンヌ・ノッセルは「優れた児童文学を、全ての子供が同じように楽しめる」という動悸は理解できるとしながらも
文学作品を特定の感性に合わせるための選択的編集は、危険な新兵器になりうる
と指摘。
【02:27】声の大きな完璧を求める愚か者たち
最初はこことここだけを入れ替えるつもりだったのに―結局編集に制限はないので、全く新しいアイデアの物語になってしまう。
最近ピエロも本を出版することになっていたんですが、やはりピエロの発言って「政治家の裏金は多少仕方が無い」とか言ってたり、大きい出版社からしたらそれってかなりリスクがあるんですね。
ピエロも明らかにダメなモノは訂正ができるんですが、その訂正って結局歯止めがきかないんですよ。その中で「一番本音の部分を修正」したり、ましてや「思ってもないことを言う」なんてあり得ないわけです。
「文学は驚きや刺激を与えるもの」であり「不快な言葉を排除することで物語の力を弱めてしまう」こともあるんです。
排除をするよりもこれらが書かれた背景や歴史について学ぶことの方がはるかに重要なのです。この「文学、文化の選択的編集」という行為は非常に愚かな行為だと私は思っています。
テレビが衰退したのはクレーマーが過激化してテレビ局側が倫理観という名のもとの選択的編集を迫られたから以上にないのです。それでどうなったか、面白くなくなったんですよ。
まさに世界で今起きてることは、日本ではすでに起きたことなんです。以前多様性の動画でも述べましたが「不完全なものは存在してはならない」なんてことはないんです。
多少の差別や、多少の偏見、多少の歪みはあらゆる文化である。そういうの全部にメスを入れ、完璧な文化であることを求める。だから滅ぶんです。歪んでいるのが自然なんですよ。
そう言うことにも気づけない馬鹿が、また世界で力をつけてきたということです。私が影響力を上げていく最たる理由に「こういった声がでかいだけの人の意見が、簡単には社会で通らないようにすること」があります。
本来こういったことは松本さんやヒカキンさんなど、影響力がある人がやってくれていればいいですが、誰もやらないのでピエロがいずれ大きなフィルターとなります。